日中藝苑
PC版
五岳の絵、故郷に帰る
私は幼い頃から絵を描くのを趣味としている。また普段ひまさえあれば、骨董屋をめぐり、そこで見つかる古い文化の足跡の中に、先人達の芸術の粋を味わい、その精華を吸収するための新たな勉強方法を探し求めるのが好きだ。そういうわけで、どこの町でも骨董屋を見て回ることは、外出する時の大きな楽しみの一つとなり、毎年日本へ戻った時にも同様に、それが私の年中行事となっている。
1996年、阪神大震災の翌年のこと、ある日、神戸の一軒の古道具屋で、積み上げられた品物の中に混じる、赤茶けてぼろぼろになった紙片の山が、私の好奇心を刺激した。よく見ると、その中のやや大き目のものから、それが典型的な中国人物画の作品の断片であることがわかり、限られた断片からでも、それら全てが、中国の古い絵に類似したものばかりであることを発見してから、私はますます興味をそそられたのである。その日私は、その骨董屋で半日余りも過ごしたが、それらの断片が余りにもぼろぼろなので、もとの古い絵のことを想って残念でたまらず、見れば見るほどその場を去り難くなり、店が閉まるまでそこに居たあげく、結局手ぶらで帰って来た。その夜はあれやこれやと次々想いが浮かび、一晩中眠れなかった。
翌朝早くから、私はまた昨日の骨董屋へ出かけ、それらの紙片を眺め始めた。店主は私が気に入ったらしいのを見て、「ある程度代金を支払ってくれたら拾い集めて持って帰っていいですよ。」と言う。私はどうしようかと考えた。これほどの紙切れの山を一人で拾い集めるのは難しいし、完全に集め切れなければ無意味で、将来修復不能になってしまうわけだ。そこで私は店主と交渉を始め、「集めて持って帰っていいとおっしゃるなら、どなたか人手を貸して頂けませんか。その人の日当もお支払いしますから。」と言うと、店主は少し考えてから、私の願いを聞き入れ、もう一人の店員も一緒に拾い集めてくれることになった。こうして私たちは三人がかりで、半日かけてついに一山の絵の断片を拾い終えた。私はそれを紙にくるんで大いに満足し、意気揚々として家に帰ったのである。その夜、この二日間の発見と収穫について妻とその妹に話しながら、紙包みを開いて私たち三人の苦労の結晶を取り出し、この喜ばしい気持ちを彼女たちにも分けてやろうとした。ところが包みを開けるや否や、目の前に現れた紙切れの山に姉妹はギョッとした様子になり、「病気とちがうの、二日もかかって紙くずの山を集めてくるやなんて・・・」というわけで、その日の食後の笑い種にされてしまったのだった。
中国へ帰った後、早速私は親友である、上海朶雲軒(だうんけん/訳注:上海の南京路にある老舗の書画骨董店)の漸氏表装研究室室長の漸伯弟さんと連絡をとり、この絵の断片の山を漸家へ持参して修復が可能かどうか見てもらった。漸師匠は見るなり「素晴らしい。素晴らしい。」の連発だったが、「一人で修復するのは難しいから、君ひまがある時には出て来て手伝ってくれたまえ。」と言う。漸師匠は上海西郊地区の華航団地に一人住まいしており、当時私が住んでいた呉淞地区からは30数キロ離れていた。そこで私はひまさえあれば車をとばして華航団地へ行き、漸師匠と一緒に断続的ながらも作業を繰り返し、半年余りの時を費やして、ついに12.5枚に及ぶ「五岳」と署名された絵の修復を完成させたのである(このうち12枚は完全な各一幅の絵になり、それぞれ高さ約130cm×幅約50cmの大きさがあったが、残りは半幅にしかならなかったため、合計12.5枚と数えた)。2000年の末に、私たちは上海浦東の龍東大道に引越し、家が割合広くなったので、紫檀の額を専門に作っている友人の范さんに頼んで、これら12.5幅のうち6幅の額をあつらえ、客間に飾って楽しんだ。
こうして数年が経った2005年4月のこと、親しくして頂いている日本の書家の加登亘先生ご夫妻が上海へ来られた折に、我が家へお寄りいただく機会があった。加登先生は書画に造詣が深く、中日両国の書画史についても極めて詳しいので、私はこれらの古い絵をご覧に入れて、「大体これでどのくらい前のものでしょう。」と、先生にお尋ねした。先生は驚かれた様子で、「五岳と称する画家は日本の歴史上では二人あり、一人は平野五岳、約百年余り前の人、もう一人は福原五岳*、約二百年余り前の人で、比較的有名な大坂地方の南画家です。」と言われた。すぐに私は絵に押された印を仔細に調べたが、確かに福原五岳とわかった時には嬉しくてたまらなかった。そして、いつの日か、この絵を日本に里帰りさせて展覧会を開くことはできないだろうかと思い至った。長い試練に耐えた後、中日両国の後人の努力によってよみがえった日本史に残る名家の作品に、その故郷で再び輝きを取り戻させたい、これこそが芸術の魅力というものではないだろうか。
その後、神戸港埠頭公社 橋間元徳理事長の多年にわたる多大なご努力に支えられ、このたびNPO法人神戸グランドアンカー 村上和子理事長はじめ関係各位にご協力いただいたお陰で、この構想がついに現実のものとなった。この五岳の絵は140年前の神戸港開港をも見守っていたはずである。その絵が阪神大震災後、神戸を離れてから12年後の今日、日中友好の使者として再び神戸に戻り、神戸港開港140周年を祝う行事に参加できることとなった。
橋間理事長はじめご協力くださった関係者各位に深く感謝申し上げたい。
(日中藝苑 陸建洛 2007年10月5日)
*福原五岳 江戸中・後期の南画家。備後生。名は元素、字は子絢、別号に玉峰・楽聖堂等。京都へ出て池大雅の門に入り、のち大坂へ出て画風を広めた。殊に人物画を得意とし、彭城百川と並び称される。また頼春水とも親交があり詩書もよくした。寛政11年(1799)歿、70才。(思文閣「美術人名辞典」より)
五岳画回归故乡
我从小就有一个喜欢画画的爱好,平时有空闲,也喜欢逛逛古董店,从那些陈旧的文化痕迹里回味往日前人的艺术精华,从中寻求人生中又一种学习艺术吸取先人精华的方法。于是乎我无论是在哪个城市去古董店看看,是我外出的一大乐事之一,我每年回日本也一样成为一个传统的保留节日之一的。
1996年阪神大地震后的第二年,一次在神户一家旧货店夹杂在一堆货物中在一堆零星的黄色残纸片引起了我的好奇,仔细观看其中一片稍大一点残纸片发现这是典型的中国人物画作品的残片,通过这些有限的残片发现尽是类似中国古画残片,于是乎更引起我的兴趣。当日我在古董店观看了有大半天时辰,因为残片太碎,使我看着这些古画遗憾万分,越看越感依依不舍,当天直至古董店闭店才使我空手而归,浮想连翩,彻夜难眠。第二天一早我仍来到昨天的古董店观看这些残片,老板见我喜欢,就对我讲这些碎片你喜欢你就出一定的费用收拾起来扫去吧。我想了想如此一大堆碎片我一人难以收拾,因为收拾不全等于不收,将来无法修复,于是我与店主谈起斤头,我对店主说:既然您让我收购,那么能不能您派人与我一起收拾,我补偿您员工的工资如何?店主听后稍思片刻,答应了我的请求帮我一起收拾,于是我们三人前后忙了半天时辰,终于将这堆碎画片收拾一堆,用些包装纸包装后,我兴高采烈,心满意足地回家了。当夜我将此事与妻子和妻妹说起我这两天的发现与收获,并边说边打开包装纸,露出一堆三人辛勤劳动的成果,让妻子姐妹俩分享我的喜悦之情。可是我一打开包装,一堆碎片呈现在眼前时,她们姐妹俩竟然十分吃惊,发现我那天是否有病,忙了两天收进垃圾一堆,成为饭后笑话……。
回国后,我立即与我的一位好朋友——上海朵云轩渐氏裱画研究室的当家人渐伯弟先生取得联系,将这一堆残画片送去渐家寻求修复可能,渐师傅见后连声说好画好画,不过我一人难以完成只要你有空一同来帮我,因为渐师傅一人独居上海西郊地区的华航小区,离我当时的居住地吴淞地区,两地相差三十多公里之远。那段时间我一有空就开着车向华航小区跑,与渐师傅一同前后断断续续花了有半年多时间,终于修复出12.5幅画上签名为五岳的画,(12幅是整幅,每幅约高130cm宽50 cm,另外还有半幅,因此我称她为12.5幅)。
2000年底我们举家乔迁至上海浦东龙东大道居住,相对居室比较宽大,我特意向我的一位专做红木镜框的朋友范先生为我定制这12.5幅中6幅镜框,挂在客厅里,欣赏自乐,一挂数年,2005年4月一位日本好友书法家加登先生夫妇二人来上海有机会来我家中小坐,加登先生对字画颇有研究,也深知中日两国著名书画史,在我介绍家中这几幅古画时,我问加登先生这几幅画约有多少年头了。加登先生见后吃惊,先生说:称五岳的画家在日本历史上有二位,一位为平野五岳,约一百多年历史,一位为福原五岳*,有二百多年历史,是日本大阪地区比较有名的南画家。我当即仔细辨认画中的印章后,是福原五岳,正确无误,高兴不已。于是乎使我想起能否有朝一日将这些画再返回日本进行展览,让这些几经磨难的历史画作,经过中日两国后人的辛勤劳作与修复后的日本历史名人名作,在画作的故乡再现辉煌,这可能就是艺术之魅力所在吧!我想在不远的将来我的这一设想一定会成为现实。在实现这一设想的过程中,会有更多的重视历史文化人们,在实现这一事业的道路上会添上更精彩的一笔,因为她通过数百年后经过我们“日中艺苑”的拯救又获得艺术新生,也充分体现出中日两国人民世世代代友好精神象征之一。
神户港码头公社理事长 桥间元德先生长期以来大力支持我们日中艺苑,并此次又得到了NPO法人 神户Ground Anchor 理事长 村上和子女士以及有关各位的热情帮助使我终于实现了这一设想。相信这五岳的画在140年前曾亲眼目睹了神户港的开港情景。阪神淡路大地震以后这五岳画离开了神户,12年以后的今天作为日中友好使者再次回到神户能够参加庆祝神户港开港140周年活动。我借此机会向桥间先生与给予合作的有关各位深表谢意。
日中艺苑 陆建洛
2007年10月5日
*福原五岳(1730-1799):
江户时代中后期的“南画”家,日本备后(现为广岛县尾道)人,名元素,字子绚,号玉峰、乐圣堂等。赴京都师承池大雅,后到大阪拓展画风。擅长人物画,与彭成百川伦比,与赖春水有深交,又善于诗词(资料来源:日本思文阁“美术人名辞典”) 。